政治

2011年1月14日革命以降のチュニジアの政治改革


  • 2011年10月23日、チュニジアは1月14日革命以来初の制憲国民議会選挙を実施(217議席)。制憲国民議会の主要任務は、国の新しい憲法を起草することと1年もしくは1年半以内に大統領選挙、立法議会選挙、地方議会選挙を行うことである。
  • 制憲国民議会選挙には「独立高等選挙機構」という独立機関が設置され、日本を含むいくつかの国や地域および国際機関の選挙監視団の下で自由で透明性のある民主的な選挙が実施された。
  • 日本からも浜田和幸外務大臣政務官を団長とする選挙監視団が2011年10月22日〜23日チュニジアを訪問

http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/23/10/1021_05.html
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/23/dgk_111024.html
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/tunisia/senkyo1110_gy.html

  • 「独立高等選挙機構」により11月14日に発表された制憲国民議会選挙の結果は以下の通り。
    • エンナハダ・ムーブメント:89議席(41.01%)
    • 共和国のための会議(CPR):29議席(13.36%)
    • エル・アリーダ(国民の請願):26議席(11.98%)
    • エタカトル(労働と自由のためのフォーラム):20議席(9.21%)
    • 民主進歩党(PDP):16議席(7.37%)
    • エル・ムバダラ(イニシャチブ):5議席(2.3%)
    • 現代主義民主党:5議席(2.3%)
    • アフェク・チューヌ(チュニジアの展望):4議席(1.84%)
    • エル・バディル・アタウリ(革新的選択肢):3議席(1.38%)
    • 社会民主運動:2議席(0.92%)
    • ハラケット・アシャブ(国民運動):2議席(0.92%)
    • 無所属 各16議席
  • 「独立高等選挙機構」によると有権者総数8,289,924人の内、4,308,888人が今回の選挙に票を投じた。したがって投票率は52%である(国内54.1%、外国29.8%)
  • 11月18日、穏健イスラム主義政党エンナハダは、「共和国のための会議」(CPR)および中道左派エタカトルとの協議で連立政府を結成し、国家統括の3ポストを3党で分かち合う同意に達した。すなわち、CPRの代表、モハメッド・モンセフ・マルズーキ氏が大統領(略歴参照)、エタカトル党代表、ムスタファ・ベン・ジャファル氏が制憲国民議会議長(略歴参照)、エンナハダ幹事長、ハマディ・ジュバリ氏が(略歴参照)首相に決定した。
  • 初の制憲国民議会は2011年11月22日に開催された。
  • 同日、エタカトル党代表、ムスタファ・ベン・ジャファル氏が制憲国民議会議長に選出され、翌日、就任の宣誓を行った
  • 2011年11月23日、フエド・ムバッザア暫定大統領は、ベジ・カイド・エセブシ首相率いる暫定政府の退陣を受諾したが、新政府が結成されるまで国務を司ることを託した。
  • 2011年12月10日、制憲国民議会は新憲法が起草されるまで国務を司るため、大統領選挙、新政府結成など、26の条項からなる暫定憲法を採用した。
  • 2011年12月12日、モハメッド・モンセフ・マルズーキ氏が制憲議会にて過半数以上の153票を得てチュニジア共和国の大統領に選出された。12月13日、新大統領は制憲国民議会臨時会議において就任の宣誓を行った
  • モハメッド・モンセフ・マルズーキ新大統領は12月14日、エンナハダ幹事長、ハマディ・ジュバリ氏を首相に任命し、組閣を託した。
  • チュニジアの新内閣は制憲国民議会によって12月23日承認され、12月24日に組閣の宣誓を行った。

 

チュニジア共和国新内閣

(2011年12月23日に制憲国民議会で承認され12月24日に宣誓)

首相:ハマディ・ジュバリ
法務大臣:ヌルディーン・ビヒリ
国防大臣:アブデルクリム・ズビディ
内務大臣:アリ・ラライエッド
改革担当内務副大臣:サイド・メシシ
外務大臣:ラフィク・アブデサレム
アラブ世界・アフリカ担当外務副大臣:アブダラー・トリキ
欧州担当外務副大臣:ツハミ・アブドウリ
アメリカ・アジア担当外務副大臣:ヘディ・ベン・アベス
財務大臣:ウシヌ・ディマシ
財務副大臣:スリム・ベスベス
産業・貿易大臣:モハメッド・ラミヌ・シャクハリ
貿易担当産業・貿易大臣代理:ベシール・ザフリ
社会問題大臣:カリル・エザウイア
移民・国外居住者担当社会問題副大臣:ウシーヌ・ジャジリ
投資・国際協力大臣:リヤド・ベタイエブ
投資・国際協力副大臣:アレヤ:ベタイエブ
地域開発・企画大臣:ジャメルディーン・ガルビ
企画担当地域開発・企画副大臣:ラミヌ・ドグリ
教育大臣:アブディラティフ・アビド
高等教育・科学研究大臣:モンセフ・ベン・サレム
文化大臣:メヒディ・マブルク
農業大臣:モハメッド・ベン・サレム
農業副大臣:ハビブ・ジェムリ
環境大臣:マミヤ・エル・バンナ (Mrs)
人権・移行期正義大臣兼政府公式報道官:サミール・ディルー
女性・家族問題大臣:シヘム・バディ(Mrs)
厚生大臣:アブデラティフ・メキ
宗務大臣:ヌルディーン・カデミ
設備大臣:モハメッド・サルマネ
居住設備担当設備副大臣:シャヒダ・ベン・フラジ・ブラウイ(Mrs)
運輸大臣:カリム・ハルニ
公共資産・不動産大臣:スリム・ベン・ヒミダネ
雇用・職業訓練大臣:アブデルワヘブ・マタール
情報・通信技術大臣:モンジ・マルズーク
青年・スポーツ大臣:タレク・ディアブ
青年担当青年・スポーツ副大臣:ヒシャム・ベン・ジャミー
観光大臣:エリエス・ファクファク
制憲国民議会関連大臣:アブデラザク・キラニ
(首相付)経済担当大臣:リダ・サイディ
(首相付)行政改革担当大臣:モハメッド・アブー
(首相付)統治・汚職対策担当大臣:アブデラハマネ・ラドガム

 

モハメッド・モンセフ・マルズーキ
チュニジア共和国大統領

モハメッド・モンセフ・マルズーキ博士は、2011年12月12日、制憲国民議会によりチュニジア共和国大統領に選出された。
1945年7月生まれ。政治家であるが、ゼイン・エル・アビディン・ベン・アリ前大統領と長年敵対関係にあった。
1980年フランスのストラスブルグ大学を卒業し医師となる。その後チュニジアに帰国し、スース大学にて地域医療分野の教授として教鞭をとる。
チュニジア人権連盟に所属後、1980年より人権に関する政治活動を始める。1987年人権連盟の副代表に選出され、1989年アフリカ初の人権監視長になる。
しかしながら団体に関する新しい法律に違反するという理由で人権連盟は1992年6月に解散となる。
マルズーキ氏はそれに屈することなく1993年に囚人側の意見を弁護するために1993年に国立委員会を設立。当局はそれを不法として、直ちに同委員会の活動を禁止。
1993年に人権同盟は復活したが、マルズーキ氏は組織の役職に関心がないと表明した。
1994年大統領選に出馬することを表明したため、新たな一連の懲罰処置対象となり、刑期およびパスポートが没収された。
マルズーキ氏はカイロを本拠地とするアラブ人権連盟、アムネスティ・インターナショナル・チュニジア・セクションのメンバーであり、アラブ人権委員会委員長、チュニジア自由のための国民評議会の報道官を務めた。
マルズーキ氏は2001年当局の承認なしにもかかわらず共和国会議を設立し会長に選出。2001年パリに亡命し2011年1月18日、前ベン・アリ大統領の国外脱出4日後に帰国。
マルズーキ氏は医学倫理から人権、およびアラブ世界の民主化の問題に及ぶ幅広い分野をカバーする著書をアラビア語版で16冊、フランス語版で4冊の著書を発行している。
マルズーキ氏は2011年10月23日の制憲国民議会選挙にてチュニスの東方60kmナブールIIに位置する CPR(共和国のための会議)の党首として勝利した。

 

ムスタファ・ベン・ジャファル
チュニジア共和国・制憲国民議会議長

ムスタファ・ベン・ジャファル氏は2011年11月22日、213票中145票を獲得してチュニジアの制憲国民議会議長に選出された。

氏は中道左派政党「自由と労働のためのフォーラム」(エタカトル・FDTL)の創設者で幹事長を務めていた。同政党は、制憲国民議会で20議席を獲得し第3政党になった。

1940年チュニスにて、チュニジア国からフランス語を排除する活動を積極的に行っていたネオ・デストウール党の家庭に生まれる。1960年代、フランスで医学を学び、チュニジアの独立に大きな役割を果たした全国労働者組合のメンバーとして活動。
フランスから帰国後、1976年にデストウール社会党(チュニジアの唯一の与党)の他の元メンバーたちと「自由の協議会」を設立。同協議会の活動は長続きしなかったが、アフリカとアラブ世界初の人権同盟として、1978年にチュニジア人権同盟の活動を開始したのが、「自由の評議会」であった。ベン・ジャファル氏は民主社会党の創設メンバーでもあった。

1994年に、エタカトル(Ettakatol)として一般的に知られている「自由と労働の民主フォーラム」を設立。同党は2002年にようやく合法化されたが、ベン・アリ政権下ではほんの一握りの議員数に限られていた。

2009年、ムスタファ・ベン・ジャファル氏は当時73歳のベン・アリ大統領が勝利することが周知であったが、大統領選に出馬することを決定。「大統領選挙をボイコットすると、いうことは断念するということ」と、2009年、フランスのル・モンド紙に語っている。

 

ハマディ・ジュバリ
チュニジア共和国首相

ハマディ・ジュバリ氏は1949年10月13日、スース市で生まれる。
スース技術専門高等学校でバカロレアを取得(1969)後、フランスで高等教育を続ける。
フランス・ランス市にて科学・技術学部の修士号を取得。パリのアーエメティエ(工芸)大学にてエンジニア研究を行い、熱力学と再生可能エネルギーのディプロムを取得。
チュニジアのエンジニアリング・設計会社にてエネルギー部長を4年間(1978〜1981)務める。
1981年から1984年、ラーシド・ガンヌーシ氏の逮捕に伴い、「イスラム傾向運動」党(MIT)の党首に選出される。 1984年、ガンヌーシ氏が釈放されMITの党首に復帰後、執行委員会のメンバーとして活動。
MITのメンバーの訴訟の末に1987年に死刑を宣告されるが、スペインに亡命。
1989年、当時のブルギバ大統領がベン・アリ首相に罷免された後、恩赦を受け同年に帰国。
エンナハダ党の新聞「エルファジル」(夜明け)を創刊したが、常に政府の監視下に置かれる。
軍事法廷を批判する記事を同紙に掲載したため1989年12月逮捕され、1年の懲役刑を宣告される。
3万人ものイスラム教過激派が逮捕されるという厳しいイスラム主義への弾圧を行っていたベン・アリ政権下、1991年、ジュバリ氏は17年の懲役刑を受ける。内10年は独房生活だった。
2006年に、彼は恩赦で釈放されたが、スースで自宅軟禁下に置かれる。
革命およびベン・アリの政権崩壊後まもなくジュバリ氏はガンヌーシ党首の下、2011年3月、エンナハダの幹事長に選出される。新政府結成のため、2011年12月13日に、モンセフ・マルズーキ共和国大統領によって首相に任命される。
既婚。三女の父。

http://www.pm.gov.tn/pm/article/article.php?id=270&lang=en